【小説】共和国(現在編)


色とチェルハの出会い話

 知らない場所で人を待つというのは、思った以上に手持ちぶさたになるのだなあとしきは改めて思う。

 土色の壁は目に優しく、適度に日が射していて気分は悪くないのだが、特に退屈を紛らわせてくれるものは無さそうだ。

 先ほどから全く人影が見えないこの路地は喧噪が遠く、なんだか妙に寂しい気持ちになって、これはいけないと頭を振る。一人きりで待つのが寂しいなんて、そんな小さい子供のようなことを思う自分に驚いた。

(私は、独りじゃない。だから……大丈夫)

 自分以外の誰かに言い聞かせるつもりで、空を見上げる。――いつだってそう伝えたい相手は、今ここには居ないのだ。

 

 何か他のことを考えよう、そう色が周囲を見回すと、路地の行き止まりに光るものを見つけた。

 興味を惹かれて近付いてみると、それは小さな石だった。白い表面が光を反射して、光っているように見えたらしい。

「……あれ?」

 なんとなく石を手に取った色は、表面に掘られている文字に目を瞬いた。すぐに英語だと思ってから、違和感を覚える。そういえば、この国に来てから文字を見たことがあっただろうか?

 うまく答えの出ない疑問はひとまず脇に置いて、文字の意味を考えてみる。中学生でも知っている程度の英語だが、単語帳と睨み合うような生活から長らく離れていた為、いまいち自信がないなと苦笑する色だった。

 

「裏返す、反対……逆さにする、もそうだったかなあ」

「――ふむ、成る程。他には?」

 記憶の引き出しから英単語を引っ張り出すことに夢中だった色は、ぬっと視界を覆った影と背後から響いた声に身を竦ませた。

 反射的に振り返った目の前には壁がある。息が詰まりそうな距離にあるそれをこわごわ見上げると、壁のように立っている黒服の人間だということが分かった。

 ずるずると引きずるようなローブだと思われる黒いぼろ布を身に纏った、痩身の……恐らく男だろう。ローブと同色のフードを目深に被り、顔の大部分には青白い長髪がうねっている。表情を確かめようにも、下から見上げるような位置に居る彼女にさえ口元しか伺えない。

 それで前が見えるのだろうか、と、驚いてうまく働かない頭で色は見当違いな感想を抱いた。

「君、その紋様の意味が分かるのかね?」

 彼女の呆けていた意識を引き戻したのは、奇しくも闖入者本人だった。

 相手がはっと身構えたのを認識したのかどうか、男は特に意に介さない様子で続けてくる。

「それは確か、南の遺跡から拝借してきた小石だったか。あそこの遺物は状態が良くなくてね、何かの紋様だろうということしか分かっていない」

「え? ……え?」

「私はどうも紋様の形に規則性があるような気がしていたのだが、成る程。古の文字だとすれば理解できる。それで、君はその文字が読めるのだね?」

「え、あの、えっと」

「ふむ。先ほどの話では、その文字一つにいくつもの意味があるような様子だったが。ああそうだ、それと似た文字が刻まれた遺物が他にもある。こちらに来たまえ」

 色が言葉の意味を理解した時には、もう手首を掴まれていた。その拍子に持っていた小石を取り落としてしまうが、拾う間もなくぐいと腕を引かれる。ローブの袖から覗いた細腕からは想像もつかない力強さに身を固くし、緊張したのも束の間、背を向けた男に二歩三歩と歩かされすぐに放される。

「ああ、適当に座ってくれて構わない。少し待っていたまえ。今、どの辺りにしまっておいたかを思い出すのでね」

「ちょっと! 何を――」

 その身勝手な振る舞いに反論しようと口を開いた色だったが、男の背を目で追った瞬間、視界に飛び込んできた景色に息を飲んだ。

 

 たった今まで、人通りがほとんど無い寂れた路地に居た筈だった。それが、何処とも分からない室内に変わっている。

 別の場所へ移動した感覚も無く、見える風景だけががらりと変わってしまったことに動揺しながら、色は以前にも似た経験をしていたことを思い出していた。

(前に、バックと一緒に居た時にも……って、そうだ!)

 同時に、自分が何故あの路地に居たのかも思い出す。

 あそこで待っていろと言われたのに、突然こんな所に連れ込まれては困るのだ。目の前で何やら家捜しを始めたらしい男の思惑は何にせよ、早く元の場所に戻らなければならない。

「あの、すみません!」

 部屋の奥でごそごそと物音をたてている黒ローブに歩み寄り、意を決して声をかける。

 男はただでさえぼろぼろの裾をしわくちゃにして、折れ曲がった蝙蝠傘のような姿勢で振り返った。埃まみれの雑巾状態になっているフード頭のまま首をかしげる様子に、色は一瞬緊張を忘れそうになる。

「何かね? すまないが、生憎茶の類は切らしていてね。まあそう急く必要もないだろう、君が一服を挟めるほど時間を使うつもりは無い。そこで悠々と待っていたまえ。ふむ、この辺りにある筈なんだがね」

「……そうじゃなくてっ!」

 叫びつつ、ひょっとしたらこの人は人の話を聞かないタイプかもしれない、と思う色だった。言い分や振る舞いは勝手だが、そこに悪意を感じられず、なんとなく間の抜けた空気を認識し始めていた。

「ふむ、おかしいな。どこかにまとめてしまったか……?」

 予想通り、彼はまるで話を聞いていない様子だった。やれやれといった緩慢な動作で埃まみれのフードを外しながら起き上がる。曲げていた腰を戻した時におよそ人体から出る音とは思えない音量で骨が鳴ったので、色は思わずぎょっとした。

 相変わらず表情は見えないが、顔にかかった長髪が忙しなく揺れ動いているのが分かる。立ち上がるとひょろりとしていかにも体力が無さそうな風体を裏切らず、どうやら息切れしているらしかった。なかなか目的のものが見つからないようだ。

 

「ええと、あの石と同じ文字が書いてある物を探せばいいんですか?」

 このままではどのみち埒があかない予感がしてきた色は、とりあえず男の気が済むのを待つことにする。言外に手伝う意思を示した色に、男は一瞬間を置いた。顔が見えないので分からないが、きょとんとした雰囲気を感じる。

「その、一人よりも二人の方が早いんじゃないかなあと。触られて困るのなら触りませんけど……」

 この部屋が何処なのかは分からないが、棚や机に物が溢れているし、足の踏み場もない程に本が積まれている様子から、男が所有する物置か何かなのではとあたりをつける。見るからに骨が折れそうな状況であるし、物探しならば人手は多いに越したことはない。

 すると、暫く黙っていた男が手を動かして、色の背後を指さした。

「――では、その棚の古書を見てくれ。上の方にあったような記憶があるのだがね」

 それだけ言って、彼はまた別の棚の方へ向かっていった。手伝うことに不都合は無いらしい。

 

 何だか妙なことになったな、と思いながらも、色も家捜しを決行することにした。

 男が示した棚は比較的整頓されていて、本棚のようだった。古書だという本を一冊手に取って開くと、古い紙独特の埃っぽさが鼻を刺す。経てきた年月を感じさせる匂いだ。

 色は古い本の匂いが嫌いではなかった。父が趣味で集めていた蔵書を思い出して、自然と顔が綻ぶのを自覚する。寂しい気持ちよりも懐かしいと思える、どこか優しい香りのような気がした。

(確か、上の方って言ってたよね)

 本棚を見上げてからふと気付く。いざ本探しを始めようとして、いきなり問題にぶつかってしまった。最上段に手が届かないのだ。

 ちら、と男の方を盗み見ると、低い棚に頭を突っ込んでもぞもぞしていた。あの様子では更に埃まみれになっているだろう。……虫でも居たらと考えると、どちらが良かったかは答えられそうにない色だった。

 自分から手伝いを申し出た手前、ここで代わってもらうのは気が引ける。しかし男の長身では必要無いのか、台のようなものは見あたらない。本は古書だと言っていたし、ここにある物は何か貴重な財産なのかもしれず、その辺にある何かを踏み台にするわけにもいかないだろう。

 

 困った色が部屋を見回していると、窓辺の一角に不自然な布の山を見つけた。山の前にはまだ幾分か作業ができそうなスペースが空いている机がある。もしや、とその布をそっと机に移動させると、色が思った通り備え付けの椅子が発掘された。

 強く押すと少し軋むが、脚も太くしっかりとしている。これなら大丈夫そうだと、靴の土を払ってから椅子に乗ってみる。

 安定感があるのを確認して、まずは何冊か本を下ろそう、そう気合いを入れて色は本棚に手をかけた。

 ――その時だった。

 

「おいチェルハ! 家の前で女の子を見なかったか!?」

 何の前触れもなく部屋に響いた大声に、色はびくりと肩を震わせる。肩どころか全身まで跳ねたような感覚に、あっと思った時には遅かった。足を踏み外したと悟った瞬間、咄嗟に手にしていた本を胸に抱える。

 貴重な本を放り出してはいけない、そればかりが瞬時に頭を支配した色は、自分の身体が倒れていくのを止められなかった。

 すぐに背中から鈍い痛みと衝撃を受けて息が詰まる。痛みに呻きながら薄目を開けると、頭上の本棚が傾いでいるのが目に入った。

 本を守ったつもりが、これではまるで意味がない――そんな場合ではないのは分かっていたが、色はいやにゆっくりと流れる時間の中で不甲斐なさを感じていた。

 

  ***

 

 横から響いた騒音に顔を向けたバックは、視界に捕らえた惨状に目を見開いた。前々から危うい立て付けだと思っていた木製の棚が完全に倒れている。

 無惨にも折り重なった古書から埃が舞い、部屋に黴くさい空気が広がってつい顔を顰めた。

「……まったく。だからちゃんと整理しとけって言ったろ?」

「おや、それは聞き捨てならないね。あちらの棚はこの間掃除したばかりだというのに」

 漸くのそのそと顔を出した主に向かってため息を一つ。あれで片付けた気でいるのだから救われない。

 言っても無駄だと判断したバックは、さっさと本題を話すことにした。

「今日、客を連れて来るって言っといただろ? その子を“扉”の前で待たせてたんだが、お前見てないか?」

 あの子のことだ、言いつけを破って勝手に移動するとは考えにくい。ほとんどあり得ないと確信しながら、できればそうであって欲しいと相反する気持ちに心中で唸る。

 こうしている間に何かあったら――そう考えると胸の奥がざわついて、そんならしくない自分自身にも焦りを感じていた。

「ふむ? そういえばそんなことを言っていたか。して、どんな客なのだね?」

「お前なあ、人の話はちゃんと……いや、俺が悪かった。客は女の子だ。黒髪で空色の目をしてる。人間にしては“色”が面白いから、見てすぐ分かると思う」

 だからこそ目が離せない、そんな言い訳めいた言葉が出そうになって慌てて口を噤む。

 バックの内情にまるで気付いた様子の無い家主は、いかにも愉快そうに声を上げた。

「ほう! それは楽しみだ。ああ、ちょうど先ほど会った子供も面白い“色”をしていてね。この国もまだまだ捨てたものじゃないと思ったものだよ」

「……どんな子供だ?」

 言い知れない嫌な予感を感じ取ったバックは、のんびり埃をはたいている男を睨みつけた。

「とても小さくて、掴んだ腕は小枝のようだったな。あんなに脆そうな身体でも生きていけるのだから、この土地は面白いものだね」

 見るからに痩せぎすのお前には言われたくないだろう、そう口まで出掛かった言葉を飲み込んで、神妙な顔を向ける。

「もっと分かりやすい特徴は出ないのかよ……年頃とか、目や髪の色とかあるだろ」

「ふむ、黒髪青目の少女だ。家の前に居たから声をかけたのだがね、なかなか利発そうな顔をしていたよ。誰かを待っている風だったな」

 そこまで聞いて、バックは今度こそ確信した。

 ――こいつは本当に人の話を聞いていやがらねえ!

 

「なんだね? 私は今とても忙しいのだがね。知りたいなら本人を見て確認したまえ」

 ほら、そこだ。そう言って示された先を見るなり、まさか――とバックの背筋が一気に冷える。

「物捜しを頼んだのだが、君が突然現れるものだから驚いたのだろう。何、案ずることはない。あちらの書物は頑丈だ」

しきーッ!?」

 

◆14-04-24