【小説】共和国(過去編)


【未完】緋色の獣が啼いた夜〈1〉

 薄暗い部屋の中、寝台の上に誰かが座っていた。片膝を立てながら窓の外を見ているルイーズを認めて、ディーンはほっと息を吐く。

「びっくりするなあ。灯りも点けずに何してるんだ」

 暗さに慣れると、月明かりに照らされた友人の顔が浮かび上がってくる。

 ――その横顔はひどく静かだった。それなりに長い付き合いだと思っているディーンでさえ、こんなにも感情の失せた彼の顔を見たことがない。慣れない空気に思わず息が詰まった。

「……ああ、ディーンか」

 まるで今初めて存在に気付いたような反応で、ルイーズがこちらを振り返る。

「そうか、お前は無事だったんだな。悪い、正直なところ忘れてた」

 普段通り茶化すような口調だったが、やはり表情は硬い。

 向けられた視線に少しだけ色が見える気がして、ディーンは瞳の奥に湛えられた感情を読み取ろうとした。だが、ルイーズはそれを遮るように目を伏せる。

「エイミーが死んだ」

 独り言のように落ちた声に、ディーンは今度こそ言葉を失った。

 

「その様子だと、お前、何も聞かされてないな。まあ、そりゃあそうか」

 ようやく表情が浮かんだ彼の顔は、傍目には笑っているように見えた。けれどそれが別の感情を抑えた顔なのだとすぐに分かる。

「リイだよ。あの赤毛野郎だ。本人に聞いたから間違いねえ」

 合わない目線の先に確かに浮かんだ憤りを見て、喉が震えた。彼が何の話をしているのか理解できない。理解したくなかった。

「あいつは、俺の弟は殺されたんだ。なあ。お前、これでもあの野郎を信じられるのか?」

 不意に合わされた視線に、心臓が嫌な音を立てる。付き合いの長さは向こうも同じだ。彼にはディーンの心など筒抜けなのだろう、そう理解しながら、向けられた瞳の意味を考えるのが恐ろしかった。こちらを射抜くような深い青が、逃げも誤魔化しも許さないと言っている。

 ディーンはたまらず目を逸らした。

「本人って、リイのこと? あいつはなんていうか、誤解されやすい物言いをするから、きっと――」

 言い掛けた言葉を咄嗟に飲み込む。自分は今、何を言っている? もっと他に、もっと先に、彼に言うべき言葉がある筈だ。どうかしている。

 我に返って顔を上げたディーンはしかし、二の句が継げない。こちらを見据える彼の瞳は、労りも慰めも求めてはいなかった。

 そんな逡巡を察したのかどうか、ルイーズは張り付けていた苦笑を引っ込めた。どうして彼の真顔をこんなにも恐ろしく思うのか、ディーンには分からない。

 

「そうだよな。お前には親も兄弟もいないから、きっと分からねえよ」

 吐き捨てられた言葉に、ディーンは横から頭を殴られたような衝撃を受けた。自分が好きで此処に居るわけではないことを、ルイーズは知っている。出自に関する周囲のやっかみを退けてくれたのは、他でもない彼自身だった。

「ルーイ……?」

 信じられない思いで絞り出した声は、静かな部屋でもほとんど聞こえない程か細かった。それでも、ルイーズには届いていた。無表情の中、彼が僅かに目を見開いたのを、ディーンは半ば朦朧とした意識で視界に捉える。――ああ、彼は彼のままだ。変わっていない。

 知らず後退りしていた身体を、伸ばされた腕に引き留められる。強く握られた手首から辿って見返した瞳は、はっきりと見て取れる程に狼狽していた。……あの言葉は、彼の本意ではない。友である自分には考えなくとも分かることだろう。ディーンは目が覚めるような思いだった。

「俺、今、なんて言った」

 目に見えて青ざめていく友人の姿に、静かに首を振る。

「なにも。ルーイはなにも言ってないし、俺も聞いてない。……大丈夫、分かってるよ」

 安心させるように頷いたディーンの顔を映すと、彼の瞳にも常の調子が戻ったようだった。そうか、と苦笑しつつ腕を下ろす。

「悪かった。多分、お前にあたったんだ。お前がエイミーと同じようなことを言うから」

 ルイーズは深く息を吐く。ディーンが黙って促すと、何かを堪えるように目を閉じた。

「俺が見つけた時には手遅れだった。何が起きたのか聞き出そうにも、そんな場合じゃなかったんだ。親父が母さんを呼びに行ってる間に、あいつはずっと笑ってた。喋るなって言ってるのに、うわごとで奴のことを……気にかけてた。そう、妙に肩を持つようなことを言ってたんだ。あいつは本当のことを絶対に言わないから、あいつの言うことは信じるなって。意味が分からなかった。自分が死にかけてる時に、他の誰かを心配してる場合じゃないだろ? 俺は何が何だか分からなくなって、でも、奴が関係してるのだけは確実だと思って、だから問い詰めに行ったんだ。……それから先はあまり覚えてない。母さんが来ても助からないのは分かってた。俺は弟を看取れなかった」

 

 ディーンにとってエイミーは、友人の弟であり、後輩であり、顔見知りの一人だった。同期達と同じ態度で付き合うような深い仲ではなかったが、決して何も知らない他人ではない。兄であるルイーズからはよく小さい頃から生意気だったと思い出話を聞かされたし、問題を起こすその兄についてお互いの苦労を労ったこともある。

「――っ」

 ――彼が、死んだのだ。ようやくその事実を飲み込んで、ディーンは思わずルイーズに縋った。

 泣きたいのはルイーズの方だろう、そう分かっていても止まらなかった。両肩を掴まれた当人は黙ったまま、特に抵抗する様子もない。そればかりか、笑みすら向けてくる気配がする。

 「そうだよな。お前なら泣いてくれるよな。……俺はどっかおかしかったんだ。今のお前みたいな顔して、ぶん殴ってもやり返してこないような奴の言葉を信じるなんて、どうかしてた。奴だって俺達と同じ気持ちだったんだな」

 力強い声に顔を上げる。青の奥に炎が見えた気がした。

「練兵場に乗り込んだ俺を見るなり、リイの野郎は『自分が殺した』と言い切った。……今になって思えば、あの場に居た時点で奴には無理だ。すぐにエイミーのことを察したってことは、無関係とは言い切れないんだろうが――」

「でも、リイじゃない」

 ディーンの否定に頷く。

「……はあ、まったく。俺ときたら頭に血が上って、気が付いたら周りの奴らに止められてたんだ。思い出した」

 努めて明るく話すルイーズに、つい肩に置いた手に力が入る。落ち着いたように見えるだけで、彼は深い悲しみを抱えている。他人が居るとそれを誤魔化してしまうのだ。

 ディーンは軽く息を吸って、静かに吐いた。

「リイは今、何処に居ると思う?」

 片手で目元を拭いながら問いかけると、ルイーズは少し思案する。

「……騒ぎを見てた奴が多いから、誰かが場を収めた筈だ。俺を取り押さえた連中の中に親父も居た気がするし、そこからあたるのが早いだろうな」

「分かった。俺も話がしたいし、今から行ってくる」

「――行くな」

 踵を返そうと離れた腕を、ルイーズの手が掴んだ。はっと見返した瞳が僅かに揺れる。

「お前一人で行くなよ。俺も行く。……もう殴りに行くわけじゃねえからな」

 念を押す言葉が奇妙で、ディーンは少しだけ笑った。

 ルイーズは泣き笑いのような笑顔で、けれど光を失っていない瞳で言う。

「お前が代わりに泣いたから、俺が泣くのは後回しだ。あいつだって次々野郎に泣かれても嬉しくねえだろうよ。少なくとも俺は嫌だ」

 そうだ、兄が言うなら間違いないと頷き合う。――今はまだ、俯く時ではないのだ。

 

◆15-05-02


【未完】緋色の獣が啼いた夜〈2〉

 日が落ちた練兵場で、リーレイリアスはただひたすらに剣を振っていた。

 午後は自主訓練する者向けに開放されているこの場所だが、今は夕飯時とあって彼のように無心で励む者は多くない。真剣に鍛錬する傍らで時折聞こえる談笑は少し煩わしくもあり、それでいて居心地が良いような気もしてくる。この一日の終わりの穏やかな時間が、彼は嫌いではなかった。

 ひと息ついて汗を拭い、何気ない動作で周囲を見渡してみる。独りで黙々と打ち込んでいる者、二人一組で手合わせをする者、それに便乗する者……それぞれの真剣さに違いはあれど、彼らから鍛錬することへの不満やだらけた気配は感じられない。端から見れば不真面目に映るような姿もあるが、この時間この場に居る時点でむしろ真面目な模範生であることは、ここに居る誰もが知っていることだった。

 ――自身が異端であることを、リーレイリアスはよく理解している。

 郷土の違いは文化の差異をもたらし、文化の差異は意識の違いを生む。この地に住む者にとっては何処とも分からない異邦から現れた人間を、直ぐさまありのまま受け入れることは難しいだろう。それは、この国の士官への道を志した時点で覚悟していたことだった。

 しかし、リーレイリアスの中では当然とも認識していた筈の懸念は、今となっては懸念ですらなくなっている。すっかり顔見知りばかりになった者達を順に見回すと、つい口元に笑みが浮かんでくる。

 顔合わせの当初こそ奇異な目を向けられたものだが、それは彼からすれば肩透かしを食らうほど短い期間のことだった。この地で初めて得た友人を筆頭に、ともすれば自分が異邦人であることを忘れそうになるほど“彼ら”は順応が早かったのだ。もちろん誰もがそうであったとは言わないが、この場で訓練する者達はまさに、そういった手合いばかりであった。

 

「おう、リイ。調子はどうだ?」

 しばし手を止めていたことに気付いたのか、不意に近くで訓練していた男に声を掛けられた。

 今では耳に馴染んだ愛称だが、そういった気安い態度にさえ初めは面食らったものだ――リーレイリアスは思い出し笑いを堪えて済ました顔をしてみせる。

「悪くはないが、そろそろ腹が減ってきたな」

「はは、俺もだ。お互い胃袋は頃合いということでだ、夕飯(ゆうめし)前にひと勝負といかねえか」

 その脈絡がありそうでまるで無い誘い方に堪えきれなくなり、リーレイリアスは小さく吹き出した。そんな彼の態度を挑戦と受け取ったようで、男はにやりと口角を上げる。

「おうおう、余裕だな。お前の不敗記録も今日で終いにしてやろう!」

 気が付けば各々周囲で訓練していた者達が、こちらを見ながら黙って場所を空けている。先ほどまで手合わせをしていた者達に目配せされたこの瞬間、本日の最終試合の組み合わせが決定したらしい。

 誘導されるまま相対した二人は、それぞれ訓練用の得物を構えて笑みを深めた。

「腹が減ってはなんとやらってな。さっさと終わらせて飯にありつきてえもんだ。なあ?」

「ああ、俺は腹が減ると気が立つ方でな。うまく手加減できずに直ぐ片が付くかもしれない、その点は安心だ」

「言ってろ!」

 声援とも野次ともつかない声が練兵場に響き渡り、鍛錬に没頭していた少数派もつい手を止めて成り行きを伺う。みな顔に疲労の色を滲ませつつも、その表情は充足感に溢れていた。

 自分もまた同じような顔をしているのだろうと、リーレイリアスは緩みそうになる口元を引き締める。

 

 違う郷里を持つ者同士が、お互い軽口を叩きながら笑い合う。そんなひと時が当たり前のように存在するこの場所が、彼はとても好きだった。

 

  ***

 

「――もう、大丈夫なのか?」

 目が合った途端にそう問い掛けられて、ルイーズは思わず顔を覆いそうになった。その一言だけで「分かって」しまったのだ。

 いつか自分の親友は、目の前の人物のことを『不器用なやつ』だと言っていたか。それにしても限度があるだろうと、己の短慮を棚に上げて強くそう思う。

「言っただろ? どっちも悪いし、どっちも悪くないんだってさ」

 申し訳なさやら情けなさやらでルイーズが苦悶する隣りで、当の親友は困ったような笑顔を浮かべていた。

「なんだ、お前たち。喧嘩していたんじゃないのか?」

 この部屋へ案内してきた父親の場違いな言葉を聞き、ルイーズは身体から力が抜ける感覚を覚える。あの現場を見ておいて、出てくる言葉がそれなのか。まるで子供同士の小さな諍いを仲裁したかのような口ぶりだ。

 それは同時に、自分と父とでは初めから見えていたものが違っていたことを明確にしていた。

 親交の程度はどうにせよ、目の前の赤毛の男は自分の友であり、同じ道を志した仲間でもあった。だというのに、数時間前の己は相手を疑うことにまるで疑問を抱かなかった。理不尽に対する悲しみも、憤りも、弟の家族としての立場もほとんど変わらない筈なのに、父と自分との間には決定的な差異があるのだ。それが場数の差というものなのかどうかは分からない。

 ただそれが、己と父との、あるいは訓練兵と教官との確かな違いなのだとルイーズは歯噛みする。

「……俺は、大丈夫だ。お前の方こそ、顔とか、いろいろ平気か?」

「そこは『殴ってごめん』が先だよ、ルーイ」

 横から聞こえる呆れた声には無視を決め込み、ただ目の前の顔を見つめ続ける。我ながら全身全霊を込めただけに、頬の痣はくっきりと残っていた。整った顔立ちは痣にさえ引き立てられるのか――と雑念が過ぎりそうになるが、当の本人は顔の傷程度どうとも思っていないだろう。男の顔の心配なんてするだけ損だな、と考えるのをやめる。

 リーレイリアスはまるでいつもと変わらない表情で、僅かに躊躇う気配を滲ませながら口を開いた。

「“これ”は気にしなくていい。俺がお前にそうさせた」

「だろうともよ! ったく、安い挑発しやがって。後で死ぬほど後悔するこっちの身にもなれってんだ」

 親友はこの事態を「お互い様」だと初めに言った。今になってそのことを心底実感したルイーズは、さっさと開き直ることにした。細かいことに拘らないのが自分の取り柄なんだと、燻る良心に言い訳しつつため息をつく。

「あの場で言えないことがあるにしたって、他にやりようがあるだろ? お前、あそこに居た奴らに自分がどう思われたのか分かってんのか」

 横で袖を引く気配がしたが、それも無視する。ルイーズの中で、これは言っておかなければならないことだった。自己犠牲のような考え方は、常に他人と同じ立場にあろうとする彼にとって最も受け入れ難いものだ。それは自分にとってはまるで嬉しくない行為なのだとはっきり伝える必要がある。

 それまで黙って目を合わせていたリーレイリアスは、言われた側から露骨に目をそらした。その場の誰もが意外に思ったほどあからさまな態度を取り繕うように赤毛は言う。

「もとより承知だったと言いたいところだが、本音を言うと、俺が傲慢だっただけだな。何人かは信じたかもしれない。それでも大半は疑問を抱いて、あわよくば各々動いてくれるのではないか、という妙な自信があったんだ。……我ながらおこがましいとは思う」

 

◆15-06-28


【未完】緋色の獣が啼いた夜〈3〉

「――リーレイリアス!!」

 場の空気を引き裂くように響き渡った自分の名に、出所を振り返って息を呑む。

 どういうわけか一方的に懐かれ、いつの間にか友と呼べるような仲になった年下の青年――それとよく似た顔の、彼の兄がそこに居た。乱れた訓練着にべっとりと張り付く赤がただの汚れではないことは、その場に居る全員がすぐに気付いた。人好きのする常の顔からは信じられないほど殺気立った青と目が合った一瞬で、リーレイリアスは全てを悟った。

「……エイミーが、お前のことを、言っていた」

 異様な雰囲気を察した者が固唾を呑む中、ルイーズは絞り出すように口を開く。他の者には目もくれず、視界に捉えた人物に一歩、また一歩と近付いていく様は、傍から見ても彼が正気ではないことを伝えていた。

 練兵場の入り口に居た数人が、片付けていた訓練用の得物を慎重に隅へ寄せたのを視界の端で確認して、リーレイリアスは軽く頷く。そのうちの一人が静かに外へ出て行った後、ルイーズはようやく彼の目の前にやって来ていた。

「何を知ってる」

 質問ではなく尋問なのだと、彼の意志がその声音には含まれていた。

 

  ***

 

「ディーン、少しいいかな?」

 リーレイリアスの部屋を後にした二人に、アシュリーが神妙な顔をして声を掛けた。あまり見ない真剣な様子に思わず身構えたディーンだが、それを見た彼はゆるく笑いながら続ける。

「そんなに深刻な話じゃあない。まあ、大事な話ではあるんだが」

「なんだよ親父。こんなところで話せることなら後でもいいだろ」

 人払いをしているとはいえ、常には人目がある宿舎の通路である。表情と状況のちぐはぐさに眉を上げたルイーズと、困惑した様子のディーンは顔を見合わせた。

 対するアシュリーは改めて居住まいを正すと、大げさに咳払いをして目を伏せた。そして、息子と同じ一対の青がディーンを見据える。

「本当はもっと早くに知らせるつもりだったんだが、これから忙しくなりそうだからな。言えるうちに言っておくべきだと思ったんだ」

「……おい、待った。まさか」

 何か思い当たったらしい息子の静止は素気なく無視され、やがて真剣な声音がひとけの無い通路に響く。

「ディーンさえ良ければ、うちへ養子に来ないか?」

 言われた側が言葉の意味を理解するのと、横で聞いていた男が叫ぶのは同時だった。

「えっ!?」

「――どうしてよりによって今なんだ!?」

 二人に驚愕の表情を向けられたアシュリーは真剣な顔をそのままに、目を白黒させているディーンに向かって言う。

「随分と前から考えていたことなんだ。言い出す機会がどうのとごねていたルイーズのことだ、恐らく何も聞いていないだろうが……急な話になってすまないね。家族みんなで話し合って決めていたんだよ」

 言外に息子達の同意を示したアシュリーの言葉に、ディーンはルイーズの方を見る。見開かれた瞳に見つめられた彼は、ばつが悪そうな顔で口を開いた。

「本当だ。でも、別にごねてたわけじゃないぞ。……親友が家族になるだけだ。不満なんかあるわけないだろ。その、単に言う暇がだな……」

「まったく、あきれた奴だ。そう言ってずるずると引き伸ばすからこういうことになるんだ。状況としては最悪だぞ」

「わざわざ最悪の時期に話したのは親父だろ!? せめてもう少し落ち着いた後にしろよ、こんな時に言い出したらあらぬ誤解を受けるだろうが……!」

「む、うちのディーンはそんな邪推はしない」

「もう父親気取りかよ!」

 

◆18-12-24