【小説】後日談・次世代編


さる男の顛末

 彼女の心は美しかった。記憶に焼き付いた年頃の“彼女”とは似ても似つかない、幼く、無垢で、素直な少女だ。

 何気ない言葉一つで拗ねる仕草も、贈り物一つでこぼれる笑顔も、どこまでも純朴で善良だった。ともすれば無意味にからかいたくなる気持ちは、“彼女”に対して一度たりとも感じたことはない。

 その意味を考える時、決まって無い筈の右目が疼いた。

「……アベル?」

 呼ばれた名に顔を上げれば、隣を歩く彼女の不安げな瞳が揺れている。美しい虹彩が、寸分の違いもなくかつての友と重なった。血の繋がりとはそういうことだ。

 なんでもないと笑いかけた刹那、不意に三人肩を並べ笑い合うさまを幻視した。一瞬の感覚に呼吸が止まる。

 ――手を伸ばせば届く距離にあった。賭けずとも道は見えていたのだ。それを自ら手放したのは誰か?

 雑踏に紛れた赤毛が視界を掠めた気がして、振り向きかけた身体を押し止める。男の顔を確かめる勇気はなかった。 

 

◆19-08-28


ある雪の日のこと

白雪しらゆき、白雪ー。今日はお外がすっごく寒いよ」

「そろそろ閉めようか?」

「大丈夫。こっちじゃ雪なんてあんまり見られないし、この子にもよく見せてあげたいの」

「はは。向こうじゃ『名は体』って言うんだろ? “白雪”なら寒さもへっちゃらかもしれないな」

「んー……あ、いま蹴ったよ! そうなのかも?」

 

「……前から思っていたが、随分と可愛らしい名前にしたな」

「あ?」

「こーら、大きい声出さないの。この子がびっくりしちゃうじゃない」

「ごめん」

「分かればよろしい。うーん、やっぱり男の子にはちょっと可愛すぎるかな? 私もラファもすっごく気に入ってるんだけど」

「名付けられた子供のことを考えろって話だろ」

「おいお前、さっきからなんだ。いちいち口出ししてくるなよ、俺達の子だぞ」

「こおーらあー」

「すいません」

 

「あーそっか、アンタは向こうの感覚分かるもんね。あっちの感覚で言うとお姫様みたいな名前なのよ。向こうでも可愛い名前の男の子はイジられてたなー」

「でも、こっちでもそうだとは限らないだろ?」

「こちらの人間からしてみれば、雪は不吉とまでは言わないが良い物でもないな。高い山は魔の国と繋がっているとされ、雪山が畏怖の対象となる地域もある」

「……そうだったのか」

「まあ、雪害も少ないこの辺りでは関係の無い話だ」

「お前ほんっと余計なことしか言わねえな! もう帰れ!!(小声)」

 

「でも困ったな。私達も近所の人達も、もうこの名前で馴染んじゃったんだよね。何も言われなかったから大丈夫だとは思うけど……」

「ただいまー! ねえ見て見て、今日はシラユキとおんなじお天気だよ!」

『おかえり』

「おまえ顔真っ赤だなー」

「寒くない?」

「だいじょうぶ! 寒いけど、きれいだし! シラユキも見れたらいいのにねー?」

「きっと見てるよ。ほら、今お返事した!」

「ほんとー!?」

 

「……おい。頭に雪が積もってる」

「あ、こんにちは!」

「こんな奴に挨拶しなくてい――なんでもないです。あー、お父さんはちょっと薪を取りに行ってきます。ラファ、母さんを頼むな」

「うん! いってらっしゃーい!」

「まったく。アンタ達、もうちょっと仲良くできないの?」

「……」

 

「あ、そうだ。ねーえーラファ。白雪の名前のことなんだけどね。もしかしたら他の名前になるかもって」

「えー!? やだ!!」

「だよねえ。白雪は白雪だもんね」

「……俺の故郷には字という風習がある。本名とは別に、幼名や愛称を考えるのはどうだ」

「いいこと言った! んー、シロちゃん……じゃワンちゃんみたいか」

「わたし、ユキちゃんがいい!」

「おっ!? ナイスよラファ、可愛いじゃん!」

 

「おい。男らしい名前にするという話じゃなかったのか」

「えー、だって雰囲気は残したいし。愛称はユキちゃんでどう?」

「俺に訊くな」

「ユキちゃんがいーの!」

「よし、決まりね!」

「……」

 

◆15-02-06


ミルキーウェイへようこそ!(ラファ)

「いらっしゃいませ!」

 朝一番にやってきたお客さんは、黒い帽子を目深に被った男の人だった。開店直後に会うのはいつも近所の人や商人さんといった見知ったお客さんが大半なので、珍しいなあと挨拶を交わすついでについじっと見てしまう。

 軽く会釈を返した顔は思ったよりも若い。帽子の色と似たコートを首元まできっちりと詰め、長めの金髪を後ろに流している風貌はどことなく上品で、以前出会ったお役人さんを思い出す。前髪から覗く瞳はあの人より神経質そうだけれど、澄んだ赤い色がすごく綺麗だと思った。

「……ここの薬湯はよく効くと聞いたんだが」

「あっ、はい! ええと、こちらでよろしいですか?」

 まじまじと見つめ過ぎてしまったかもしれない。決まり悪そうに目を逸らしたお客さんに慌ててお薬を渡そうとした時、再び店の扉がカランと鳴った。この静かな響きにはとても聞き覚えがある。

「カインさん、おはようございます!」

 開いた時と同じように優しく扉を閉めた彼は、お店の常連さんの一人だ。

「おはようラファ。お邪魔して申し訳ない」

 笑顔で挨拶を返してくれたカインさんは、先に来ていたお客さんにも一言断りを入れている。相変わらず気持ちのいい人だなあと思っていたら、間近でガシャンと音がした。

 

「あらら、手伝いますねっ!」

 どうやら赤目のお客さんがお財布を落としてしまったらしい。お金を拾おうと屈み込むと、見たこともない大粒の魔石があちこちに転がっている。やっぱりお役人さんかあ、これは大変だと冷や汗が出つつも、カインさんが近付く気配を感じて少しほっとする。

 優しい彼ならきっと一緒に手伝ってくれる、そう思って落ち着いてきた鼓動だったのだけれど――

「ラファ。そこを動くな」

 次の瞬間、頭上から降ってきた見知った人の聞き慣れない低音に、わたしの心臓は再び跳ね上がることになってしまった。

「お前、どういうつもりだ? この店に何の用だ」

 恐る恐る見上げたカインさんの表情は硬い。吐き出された言葉はわたしではなく、赤目のお客さんに向いている。

 対するその人はまた決まり悪そうに目を逸らすと、やがて溜め息混じりに口を開いた。

「まさか、お前が“ここ”に通っているとは思わなかった。邪魔したな」

「質問に答えろ!!」

 こんな風に声を荒げるカインさんは初めて見て、思わず肩を揺らしてしまう。ただならない様子に口を挟むわけにもいかず、身動きすらできない。

 ふと視線を感じて顔を向ければ、苦笑を浮かべた赤い瞳と目が合った。

「……俺は、評判の薬屋に客として来た、ただの医者だ。店番の子供を脅しに来たわけじゃない」

「ッ、ラファ、すまない。大丈夫か?」

 素早く振り向いたカインさんはひどく慌てた様子だった。さっきまで別人みたいだった怖い顔が普段の彼の穏やかなものに戻ったのを見て、思わずふっと力が抜ける。

「ラファ!」

 わたしの身体が床に転がる前に、彼が咄嗟に支えてくれた。

 お礼を言おうと急いで腰を浮かせたけれど、知らない間にすごく緊張していたらしく、どうにもうまく力が入らない。

 

「じゃあな。その辺のは、まあ、詫びとしてとっとけよ。……悪かったな」

 ベルの音が聞こえて振り返れば、赤目のお客さんが店から出て行くところだった。わたしが腕に掴まっているせいで動けないカインさんは、黙ったまま扉の方を睨みつけている。

「――あの!」

 力強い腕に縋ってどうにか立ち上がったわたしは、そんな彼を思わず呼び止めていた。

 二人は知り合いなの、どうしてそんな顔をするの、こんなお金貰っても困る――沢山疑問が渦巻いていたのに、何故か口を突いて出た言葉はこれだった。

「その、うちの薬湯は本当によく効きますから、また来て下さいね!」

「……」

 扉に手を掛けたまま押し黙った赤目さんに呆れた顔を向けられて、少し後悔した。耳元で溜め息が聞こえて更に焦る。

「だ、だって、うちってば常連さんばっかりで心配なんだもの。新しいお客さんが来てくれて嬉しかったの! それにお医者さんならきっと、お薬をずうっと仕入れてくれるでしょう?」

 

「だ、そうだが。随分と商売根性旺盛な店番だな」

「ラファ……」

 苦笑と溜め息の二重奏はやめてほしい。うっかり口が滑っただけで、ちょっとは反省してるってば!

 顔が熱くなってきたわたしをよそに、ふと赤目の彼が面白そうに笑った。

「まあ、俺としては全く構わんがな。そこの王子様は不満らしいぞ?」

「いいわけがないだろう! ……いや待て、何だそれは!?」

「さっきのお前だよ。まさしく姫を守る王子の図だったぞ。実質似たようなもんじゃねーか」

「お、おい! ラファの前でよせ!」

 わたしを挟んで言い合いを始めた二人は、さっきと違って全然怖い雰囲気じゃない。

 あっという間に別世界になってしまった空気を尻目に、わたしは母がよく父に向けてこぼしていた言葉を思い出していた。

 

(男の人って、わかんない!)

 

◆13-07-13


【未完】ユキとラファ(ユキ)

 俺は自分の名前が好きじゃない。

 親に貰ったものを、と周囲には聞き咎められるが、実際には俺の誕生に立ち会った姉さんが付けたものだそうだ。別にそれが理由で嫌っているわけではないし、姉さんや両親に不満があるわけでもない。説明しようとする度、うまく言葉にできず歯痒い気持ちになる。

 

「ユキちゃん、今日もおでかけ?」

 気晴らしに友人の元へ行こうとすると、店の倉庫を掃除していたらしい姉さんに鉢合わせた。……今日は運が悪いかもしれないな。

 黙って肯いた俺に、姉さんは困ったような笑顔で言う。

「あんまり遅くならないでね。今日は父さんが帰ってくる日よ、覚えてる?」

「大丈夫。覚えてるよ」

 それだけ返して背を向ければ、背後で小さな溜息が聞こえた。

 ――子供染みたことをしていると、自分でも分かってはいるのだ。それでも、最近は家でじっとしているとどうにも落ち着かない。以前そう友人に零したら「君の父親もその父親も、よく似たようなことを言っては家を飛び出していたから、そういう血なのだろうがね。あまり似るなよ」と笑われた。

 父は尊敬できる人だし、そう言われると悪い気はしない。こうして家を空けることが多いのも、世界の色んな土地を見て回らなければならない仕事に就いているからだ。父本人は趣味の延長だと楽しそうに土産話を持って帰ってくるが、母さんや姉さんが時折心配そうにしているのを知っているし、危険を伴う仕事であるのは事実だ。

 

 そんな父の背を見て育った俺は、確かに同類なのだろう。いつだったか、父さんが居ない間は店の男手は俺だけだからと渋々家業を手伝っていた頃「ユキにもやりたいことがあるだろうし、力仕事だけでいいよ」と母さんに言われてしまったことがある。父の一言から十を汲み取る母さんには、その息子の本音を見破ることなど朝飯前なんだろう。

 尤も、姉さんはそんな扱いが逆に俺を仲間外れにしているように思えるらしく、顔を合わせる度にあんな調子だ。気持ちが表情や行動に素直に出る姉さんは、正直、他人に気を利かせる役割には向いていないと思う。とりあえず、本人の前で溜息を吐くのはいい加減やめてほしい。そういう表裏の無いところが姉さんの長所でもあるのだが。

 

◆13-07-14


夫婦喧嘩は犬も食わない

「おいチェル! このクソヘビ野郎! ゼクが家出したってどういうことだ!」

「……おや、随分と久方ぶりに顔を見た気がするね。さて、主人が伴侶の顔を忘れ欠けるほどの長いあいだ我が家を空け続け、さぞ顔を合わせたくなかっただろう私の元へ君が厭々ながらも息せき切って遣って来なければならなくなった件の事案だが、言葉の通りだ。何か補足すべき点は見受けられないように思うがね」

「おう、誰が伴侶で主人だって? 手前のその減らず口も変わらねえもんだな。帝国にフラフラ落っこちて行方不明になったかと思えばボロッボロで死にかけながら帰って来たらしいじゃねえか、ざまあねえなあ。――アルの野郎がどれだけ心配してたと思ってやがる! いいかげん手前の息子に無駄な心労かけんなっつってんだろが、ああ!?」

「……なら、君はこの家を空けたりせず、好きなだけ私の息子達の世話を焼いたらいいだろうに。そうやって“まっとう”な家族の真似事をしてみたかったのだろう? 君がまだ人間だった頃、自分の息子に親らしいことができなかった過去を悔いていることを知っているのだよ。ならば主人である私は、いじらしい伴侶の切なる想いを汲んでやるとしようじゃないか。私としては今すぐにでも、君がこの家の主を名乗ってくれて構わないのだがね?」

「――おそれながら、私には身に余る光栄です。崇高なるチェルハトーラ様にそのような誉れを賜る道理が、生まれも育ちも人間という卑しい身分の私めにはありませぬゆえ」

「……コル、止せ。それはいやだ」

「そうかよ。だったらもうちょっと一家の主らしい顔してろバカ! お前には威厳っつうもんが足りねえんだよ。威厳もねえ自覚もねえ甲斐性もねえ思い遣りもねえ、そんな無い無い尽くしのクソ野郎にこの俺様が助言してやってんだ、せいぜい有り難く思いやがれ!」

「……君が腹を立てているのはもう充分に理解したから、私をそう邪険にするのはやめてくれないかね。なにやら心に来るものがあるのだが」

「おお! お前にもようやく人の心の何たるかが分かったのか、それはまた随分と微々たる進歩だな!」

「……コル」

「ケッ! その重病人みてえな格好で辛気臭えツラすんな、鬱陶しい。元々死にそうだった見映えが見るに耐えないもんになってんぞ。かわいそうに、ゼクの身体が貧弱なのはお前のせいだろうなあ?」

「……ゼクシリウスの件だったか。あれについては私もよく事情が分かっていない。アルファルドとセルペンティスから出奔した事実を聞いたまでで、私はこの通り動けそうにないのでね」

「お前が勝手にスネて出てったツケだろうが、知ったこっちゃねえよ。だいたい、俺が会いに来ねえからって“塔”の居住区に一発ブチかますたあどういう了見だ! 幸い俺も同室の連中も所用で出てて死人は出なかったがよ、アルの奴がただでさえ忙しい時期に借り出されてぶっ倒れてたぞ! 関係ねえ奴らに迷惑かけんじゃねえよ!!」

「……その話も、聞いた。流石にあれは私も悪かったと思っているよ」

「私“も”だあ? まるで他にも原因があるような口ぶりだなあおい。言っておくが俺はちっとも悪くないぞ? 手前が、新しく建てた家はヘビの身体じゃ狭苦しくていやだいやだと抜かすから、もうちったあ広い間取りを考えてやろうと泊り込んで仲間連中と一緒に知恵を絞ってたらよお、ウン百年前に一度だか二度だか落ちたっつうでっけえ雷が作業場の横を突っ切ってくじゃねえか?」

「…………」

「言い訳があるなら聞いてやる」

「……無いな。私が悪かった、どんな罰も甘んじて受けよう。そうだ、遠い異国の人間は蛇を捕って食べるのだとその国生まれの少女に教わったよ。私の身体ならば食いでに不足は無いだろう、煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わない」

「んなでけえ丸焼き食い切れるわけねえだろ、断る! ……しっかし、ここらの人間が聞いたら卒倒しそうな食生活してやがるなその娘。俺はお前を崇めてる連中にこれ以上目の仇にされたらたまったもんじゃねえぞ、絶対に御免だ」

「……では、私はどうしたらいいのかね? どうやって君に償えばよいのかまるで見当がつかない。困ったものだ」

「はあ。本当にな。――とりあえず、手前はさっさと俺で食事を済ませろ。そんな今にも倒れそうな顔されっと胸クソ悪いからな。あと、アルとセルには後でもっかいちゃんと謝っとけ! ゼクのことは俺も色々あたってみるから、お前は早く動けるようになりやがれ。このツケは後できっちり働いて返せよ! いいな!?」

「……しかし、それだけでいいのだろうか?」

「だーもう、俺がいいっつってんだろ! それから、セルはああいいう奴だから何も言わねえだろうがな。あいつだってずっと心配そうにしてたんだぞ」

「……ああ。わかっているとも。ありがとう、コル」

「るっせえな! もう家出なんかすんじゃねえぞバカチェル!」

 

◆13-09-12(木)